膳の話
私の家に「そうわの膳」十人前と同じく「会席膳」の十人前が残されている。
「そうわの膳」とは茶道の宗家、金森宗和が茶の湯の後招待客に、
点心(昼食)に出す膳に使ったことから「宗和の膳」と呼ばれるようになり、
その後日本料理(和食)の膳として今も料亭では使われている。
朱、または黒の漆塗りで木製の椀など一式をふくめていうのであるが、
それらを使うのは祝言、法事など、重要な儀式のみに使用された什物である。
また「会席膳」は平膳で角盆を大きくしたような食膳で
連歌、俳句などの席で軽食用に使われたという。
今は私の村でも多くの家にあるが、かつて私の村では庄屋か寺院か、
よくよくの冨農家にしか持っている所はなかった。
それだけに我が家でも「何んどごと」があると倉から出し、
使った後はよく洗い、叱られながら注意して拭い陰干をして終ったことを覚えている。
その度に「この什物は某家の「市」で買ったもので、
もとは家中(武家)のものじゃそうな。よい品物じゃぞ」と言い聞かされた。
「市」とは不幸が重なると、その負債整理に家財道具を売り
借財に当てることをいうが、大正の始め
我が家でこうした什物と供に田んぼも一番上田を買ったという。
この膳類も幾多の変遷を経て我が家に辿り着いたものらしく、
箱書には「会席膳十人前駒林氏」と書かれてある。
「市」の話はよく聞かされていたので、この什物の持主、駒林氏とはどんな人なのか
子供の頃から興味を持っていたので、
最近小浜市文化課、図書館の方々のお世話になり調べた所、
思いかけない人々に繋がっていたことが判明しびっくりしたものだった。
小浜市史藩政資料由緒書によると駒林家八代の治兵衛氏は喜内正言と言い、
酒井藩では中級位の家臣で敦賀町奉行(天保~弘化)も勤めた家柄であったという。
駒林六代の源兵衛正式の三男は天保元年、山川家四代貞蔵式縄の養子となり、
五代鋼三郎式虔と名乗ったとある。つまり山川登美子の曾祖父がこの人である。
駒林家と山川家は強い血の繋がりで結ばれていたことを始めて知った。
酒井藩は徳川家重臣として幕末の動乱に巻き込まれ、
忠義、忠氏の二藩主は幾度もの苦難の道を歩まされた。
登美子の父貞蔵も勿論、駒林家もまた藩士一同も茨の道を歩かされた。
登美子の父貞蔵は藩主の側近として活躍、
廃藩後の禄を離れた藩士達の救済にも奔走したという。
藩なき後の家臣達の苦悩は大変なものだった。
いつの時代にも変革は人びとの人生を狂わせる。
この膳も若狭の維新史を伝えるものの一つだろうと思って見直している。
名田之庄語り部の会 田歌 昇