母・妻・子への愛 人間 佐久間 勉
若狭地方に連日降り続く雪の中を、媒酌人の恩師成田鋼太郞氏は京へと向かいました。
明治四十一年正月、平安神宮にて結婚式。
「最高の安らぎと大きな奮発心を与えてくれる女性」と人に語るほど幸せな結婚生活でしたが、
それはわずか一年余りでした。
明治四十二年、妻次子は「女のお子さんですよ」の声を聞いてまもなく還らぬ人となったのです。
「次子の生命を捧げて産みたる形見なれば之を見ること次子の如し。
将来幸福を得させんと「輝子」と命じ候」
明治三十九年九月に敬慕してやまなかった母の死に続いて、
夫人の逝去と愛娘を里子に出さねばならぬという佐久間勉の精神的打撃は深く、
「今日こそは悟りの人と思ひしに明くれば元の我が身なりけり」と、悲嘆にくれ喘いでいます。
敦賀町の屋敷太三郎方へ引きとられた長女輝子は、慈愛なる乳親によく懐き、
ご夫婦は実子の如く愛育されたということです。
輝子さんはご両親の寿命をもいただいて、九十二才の天寿を全うされました。
佐久間記念交流会館には、殉難二週間前に撮られた親子写真も展示されています。
どうぞご来館下さい。
佐久間艇長研究会 大野文子
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