天徳寺馬頭観音
今を去る千三百年ほど前の養老年間、
奈良の都で元明天皇の病気治療を果たした泰澄大師は、
白山への帰途若狭の国へ回り、
滾々として湧き出る冷水を汲み宝篋嶽に上がりました。
上がってすぐに北の方角に向かって祈り白山権現を勧請しました。
白山権現は十一面観音と日本の神とが一体になったものです。
その後大師は山腹へ下りて馬頭観音一躯を刻み、
丁重に岩洞に安置して去って行きました。
二百年後の天暦九年三月、
岩洞に安置されていた馬頭観音は宝篋嶽の岩上に出て
雷鳴と共に光りかがやいていました。
観音の奇瑞は七日七夜に及び、驚いた村人が守護所へ訴えました。
訴えを聞いて役人が調べてみると、それは三尺余りの馬頭観音でした。
その噂は遠くへ広がり、多くの人たちがこの山里を訪れました。
やがて噂は京の都の天皇の耳にまで入りました。
時の帝村上天皇は宣旨を下してこの観音を守ろうとお思いになられました。
まず馬頭観音を祀る観音堂が建立され、
つづいて大門、伽藍などが次々に造営されていきました。
ほどなく寺名に天徳という元号が与えられて、
ここに天徳寺が誕生したのです。それは山々に卯の花が咲き乱れ、
境内の水たまりにくいなの鳴き声が聞こえてくる天徳元年春のことでした。
宝篋山天徳寺 湯川真乗