浪音淋しく(三)
俳誌「層雲」昭和五十一年六月から十月号、五十三年七月号に連載された大竹大三氏の「小浜の 放哉」が、かなり深い小浜に於ける放哉の論考として注目される。特に放哉書簡に出てくる常高寺の 和尚について常高寺過去帳、東光寺保管書類、本山妙心寺への問い合わせ等から詳しい経歴が 調べられていて教えられる。
明治二年三月福井県現おおい町大島に出生宮本八之助、二十六年現小浜市浅間の常高寺住職 霄祖泰の養子となり春翁と改名、三十九年三月常高寺住職となる。大正六年三月結婚、翌年二月 長男春治出生するも四日後死亡。大正十一年四月離婚。養父祖泰に明治三十一年生まれていた 春嶽を春翁養子としていたが、大正十二年十月春嶽も死去、その年十二年五日常高寺本堂焼失、
十四年二月より宣誡状を受け、十四年七月下山故郷大島に帰る。
大正十四年五月に来たとされる放哉の常高寺は、すでに三ヶ月前に住職が罷免され、再審申請も 三月には却下されていたのである。
一子を授かるも夭折、離婚もしていた春翁に当時廓に親しい女がおり、後継春嶽も死去する悲しみを日々酒で紛らわしていた住職が出火時女の許にいて不在と噂されても仕方ない状況ではあったと 思われる。「浪音淋しく三味やめさせ」ていたのは春翁であったかもしれない。それとも一人 小浜の地に漂泊する放哉自身の思いか、想像句か、と大竹氏は書き、「場末といった町の、低い軒を
並べている。三味線の音が浪音に和して一段とわびしく聞えてくるような所だ。」と結んでいる。
(句誌「ほととぎす」同人 森田 昇)