人としての佐久間艇長
今から百十三年前のことになりますが、
明治四十三年四月十五日、
山口県新湊沖において訓練中でありました第六潜水艇が事故により沈没し、
艇長以下十四名全員が殉職しました。
艇長は死の間際、
潜望鏡から漏れ出る僅かな明かりを頼りに
小さな手帳に記録した遺言には、
責任を最後まで果たそうとする気構えと覚悟、
そして残された部下の遺族のことを腐心するなど温かい人間性が滲み出ています。
この遺書は、
当時の大手マスコミで報道されました。
また、イギリス海軍によって海外へも発信されたことで、
多くの人に感動を与え、社会的にも大きな反響を呼び起こさせました。
明治の文豪であった夏目漱石は、
病床ではありましたが、
知人に依頼して遺言の写真版を入手し、
それを読み込んで名文と賞賛しています。
また、明治から大正にかけて歌人として活躍した与謝野晶子は、
第六潜水艇の事故の一年後に
「佐久間大尉を傷む歌」として挽歌を十五首発表しています。
その一節を末尾にご紹介いたします。
「海底の水の明かりに認めし永き訣れのますら男の文」
佐久間記念交流会館 久保上 宗次郎