若狭テクノバレー誕生秘話
若狭町(堤、杉山地区)に立地する若狭テクノバレーは、
若狭地域の若者の働く場を確保することを目的に、
昭和五十六年福井県によって計画された中核工業団地です。
しかし、その実現に向けては大きな壁が立ちはだかりました。
これより先、
昭和四十四年に県が坂井郡三国町(現・坂井市)と
福井市川西地区にまたがる三里浜砂丘地帯に
四百三十億円(当時)の巨費を投じて造成した、
福井臨海工業地帯(現・テクノポート福井)の企業立地が
思うように進まず、ぺんぺん草が生えているなどと揶揄され、
県政上大きな課題となっていたからです。
そこへ持ってきて若狭での工業団地造成ですから、
県議会では福井臨工の二の舞になると、厳しい意見が相次ぎました。
当時の中川平太夫知事(現・若狭町上野木出身)は、
何としても達成したいとの強い気持ちから、
事前に核となる企業(本社・滋賀県)との間で、
立地について確約を取り付けるなど、
万全の手立てが講じられていました。
「首に縄を付けてでも引っ張ってくる」との、
中川知事の自信に満ちた答弁により、
厳しい県議会を乗り切ることが出来ました。
あれから四十年余。難産の末生まれた工業団地は、
若狭テクノバレーと名付けられ、
町内はもとより嶺北や隣県からの若者の雇用の受け皿となり、
その目的は十分に果たされ、
若狭地域の限りない発展に大きく貢献しています。
若狭の語り部 網本恒治郎