湛玄禅師から教わったことなど
小浜の佛国寺は韓国慶州の世界遺産佛国寺とも縁の深い古刹で、
若狭守護武田氏の菩提寺です。
前住職原田湛玄禅師が創られた静謐な座禅堂があり、
世界中から修行者がたえません。その禅師が逝去され、
昨年の春が三回忌でした。師に沢山のことを教わりましたが、
これは〝お説教〟からではなくあとで私が気づかされたことの一齣です。
一つは愚息の出来事です。高速道路を走行していた時のこと、
一瞬気づいたときは、事もあろうに逆走していた。
生きて帰れたのが全く不思議だった。
帰路予定はなかったが佛国寺へ寄ることにした。
寺に着くと山門の所に禅師がたっておられ、
〝どうれ、どれ!どうしました?どうなりましたか〟と問いかけられ、
全く思いがけない言葉に驚いたというのです。
もう一つは私自身のことです。在職中に上司から突然、
選挙に出ないかと云われました。
その場合、途中退職しなければならないことになります。
青天の霹靂でした。
準備しながらも内心悩みつづけていました。
たま〱お寺へ行く用があったので、
思いきって禅師に打明けてみたのです。
師は暫し黙されてから「ことわりなさい。
私怨のようなものが見えかくれする。捲きこまれてはいけない。」と、
きっぱり諭されました。あまりにも速断の呆気ないお言葉で、
かえって腑に落ちないような気持でした。
その後熟慮して上司にお断りしたのですが、
それは正に正解でした。
さて、愚息のそれは、表情を観て咄嗟に何かあったな、
と気づかれての直感的な自然のお言葉だったのでは、と思います。
私の場合も、直感的な御判断だったのではと思うようになりました。
後日、開祖道元様の本に
〝理屈で考えた答えが真理なのではない〟といったような意味のことが
書いてありました。湛玄禅師のお言葉も、
きびしい禅の修行、信心によって研ぎ澄まされた直観から自然に吐露された、
との思いを深くしました。
現住職の晃岳老師からは
「人間の頭であれこれ考えることには限界がある」と
いつも教わっていますが、
通ずるところがあるように思います。
佛国寺は、禅寺のきびしい雰囲気も感じはしますが、
禅堂は開かれた場です。山門をくぐると
沢山のお地蔵さまがあたたかく迎えて下さって、
慈悲の心、母の心のようなものが伝わってきます。
佛国寺総代 前小浜市長 村上利夫
すべてよし
お釈迦さまの御ことばです
すべては常にすべてによって守られ
一つは一切によって
一切は一つによって
すべてはすべてによって
常に常に円融し
永劫に不変であり不滅であります
すべては万徳円満であり
御一人御一人の真実であり
大安心の根元であります
この真実のあることを一大事因縁と申します
ねがわくはこの真実をを深く信じ
人々脚根下の一大事に目覚めんと
発願し歩みをすゝめてまいりませう