薄倖の歌人・詩人・俳人シリーズ其の参
「薄倖の歌人明石海人のことなど」
明石海人こと野田勝太郎は、明治三十四年(1901)七月五日に、
野田浅次郎の三男として、静岡県駿東郡片浜村(現沼津市)に生まれ、
昭和十四年(1939)六月九日に三十七歳の短い生涯を閉じている。
彼は十九歳で静岡師範学校本科を卒業すると、
小学校の教職につき、二十四歳で結婚し、
二十五歳の折に長女を授かるが、
翌年次女が生まれる直前に癩病(ハンセン病)の診断を受ける
(「医師の眼の穏しきを趁ふ窓の空消え光つつ花の散り交ふ」)。
当時のハンセン病は、現在とは違って死に至る不治の病とされ、
しかも悪質な伝染病と言う虚偽の烙印が押されていた。
そのため、一族までが世間の差別と偏見の目に曝されるため、
この病に罹った者は戸籍を捨て、
名を捨て、
家族を捨てなければならなかった。
野田は、隔離と療養のため、
最初は、兵庫県明石の明石楽生病院に入院する。
その折に、野田勝太郎の名を明石海峡に捨て、
「明石海人」と明石海峡に捨て、
「明石海人」と名乗るのである
(「父母のえらび給ひし名を捨ててこの島の院に棲むべくは来ぬ」)。
見舞いに訪ねてくる妻子に済まないという思いが込み上げ、
懺悔の気持ちと子らにほとんど会うことが出来ない苦しさに、
気は狂わんばかりであった
(「あらぬ世に生まれあはせてをみな子の一生の命を腐し棄てむ」
「鉄橋へかかる車室のとどろきに憚からず呼ぶ妻子がその名は」)。
しかし、明石楽生病院では隣室の泉陽子と親密になり、
昭和四年から六年にかけて関係を持つが
(「地獄に堕ちなば堕ちね我がために孤をまもるをみな子は愛し」)、
病状が悪化した昭和六年夏には、
入院している明石楽生病院が経営難から閉鎖することになり、
国立癩療養所長島愛生園への転院を余儀なくされる。
精神錯乱状態が起こり、
発熱を伴う体調不良が続く中、
昭和九年に長島愛生園の機関誌「愛生」に詩歌を発表する。
このころから眼疾が悪化して、昭和十一年、
三十五歳の秋に失明している。
そして昭和十四年六月に長島愛生園の重病室
「水星病舎」にて腸結核により永眠する
(「癩我三十七年をながらへぬ三十七年久しくもありし」)。
自らの病を「天刑」と称し、
最期には、こうした残酷極まりない運命を受け入れる彼の潔さは、
その慟哭の短歌と共に我々の心を打たずには措かない。
国立舞鶴高専人文科学科 名誉教授
文学博士 村上 美登志