佐久間勉艇長の母と妻
佐久間勉艇長の慈母「松野」は明治三十九年に、
愛妻「次子」は明治四十二年に亡くなりました。
この二人の死は、艇長の死生観に大きな影響をあたえました。
決して裕福ではなかった佐久間家に生まれた艇長は、
父母に孝行したい一心で、勉強し努力して海軍に入りました。
やっと親孝行ができると思っていた矢先に母は病気になり
京都大学病院での看病も虚しく亡くなりました。
その時、恩師成田先生に
「「樹欲静而風不止」是より鴻恩の万一をも
報ぜんと欲せしに、今は在さず。
思い起こす事ども涙の種ならざるは無之候。」
と書き送っています。故郷での三十日祭の夜、
母の写真の裏に
安政弐年拾月弐日生レ
母 松野 明治三十九年九月二十五日永眠ス
享年五十一
噫々
鴻恩畳々
喬嶽ヨリモ重シ
報恩の萬一ヲ盡サズ
今ヤ永訣ス 実ニ之レ断腸ノ嘆
希クハ天ヨ 我ガ慈母ヲ安楽浄土ニ導キ給ヘ
余ハ赤誠ヲ奉ジテ君国ニ盡サン
聊カ以テ餘孝ヲ完ウシ得ベキカ
明治三十九年十月二十八日
孤灯の下ニテ之ヲ認シム 熱涙潜々
次男 勉
と書きつけました。
次子は小浜の糟谷家に生まれ富山で育ちました。
明治四十一年一月三日、平安神宮にて
成田鋼太郎先生媒酌のもとに結婚しました。
艇長の艦隊勤務の合間のわずかな新婚生活の後、
四十二年二月十一日の朝、一子輝子を産み、
午後四時に亡くなりました。艇長は成田先生に
「噫々、先生何と申さんか、実に今回の事、
隻手、否双手を切断されたる感あり・・・
人生の悲嘆何か之に過ぐるものあらむ。
如何に気を丈夫に構うと雖も、
断腸哀悼の情、禁ずる能はず。」
と手紙を書きました。
(列車中の偶感)
友消えて 手荷物軽し独り旅
(亡き人を思ひやり)
独り旅 今日は何処に宿るらん
(山陽道に入、今昔の感に堪へむ)
二人往き 一人帰るの浮世かな
来たる四月十五日の顕彰祭には是非お出でくだ さい。
そして交流会館にもお立ち寄りください。
佐久間艇長伝記編集委員会 小堀 友廣
趣旨
わが郷土が生んだ佐久間勉艇長は、明治43年4月15日に
山口県新湊沖における第六潜水艇の半潜航訓練中に殉難された。
その殉難の日に、佐久間艇長の遺徳を偲び、
後世にその人となりを語り継ぐために 顕彰式典を開催する。
日時 平成25年4月15日(月) 10:00~
祝辞 若狭町議会議長 小堀友廣