大洲城天守閣復元
「巽櫓(たつみやぐら)」復元 大きな構想
十月十八日、私は念願の四層四重の天守閣が復元された大洲城見学の機会をた前日の松山市での会合の後、特急電車で大洲駅に降り立った。車で走ると、肱川にかかる橋から四重の白亜の天守閣が、澄み切った秋の陽を浴びて小高い丘の上に光っていた。天守の両袖には重文の櫓が控え、連結式天守閣を支えていた。
数分で城に到着。市の企画調整課長に案内していただいた。直ちに急こう配の最上階まで登り、四周を見渡す大洲盆地の景観は、中央を流れる肱川の清流と共に旧城下町の面影を存分に味わわせてくれた。ついで、天守閣復元の経過の説明を受けた。
大洲市(人口四八000人)では過去幾度となく天守閣復元の機運が生まれては下火になっていたという。一九八四(昭和五九)年、市制三十周年に鉄筋による復元が計画され、九四(平成六)年の四十周年の時、次の五十周年をめどとして市の基金造成が市議会で可決され、城付近四㌶を都市公園とする都市計画が決定、完成を目指したという。
九六(平成八)年に復元委員会が、商工会議所会頭を会長に市議会議員や市の各種団体長らで構成され、その下に保存管理・建設・募金・募木の四専門委員会をおき、商工観光課に事務局、そして九人の復元推進班を常置。月一回「広報おおず」に大きく「かわら版復元天守閣」のコーナーを設け、完成までの八年間に九七号を数え、市民との復元目標の共有に資したという。
市職員も夏冬二回の手当から各三000円を六年間積み立て、総額二000万円を寄付し、市内外の募金は目標額の五億円を突破したという。ちなみに、この間市長は四期十六年の任期を全うし、会頭とともに募金活動の先頭に立たれたという。まさに「天の時地の利人の和」を地でいく復元事業とお見受けした。
福井新聞より転載
若狭歴史民俗資料館友の会理事 中島辰男