文政七甲申年三月 一八二四年
第十六図 小浜御城下之絵図
徳川十一代 家齋 酒井十代 忠進
旧町名は語る(三)日吉区
達磨小路六十七、今町三十一。
藥師小路二十三併せて百二十一戸が明治七年日吉町となる。
達磨小路は昔そこに達磨の木像が仮屋に入れられていたこと、
藥師小路は薬師堂があったことによる町名で、
明治四年の今町地図に鵜羽小路へ抜ける狭い通りに、
薬師堂が描かれている。嘉永三年この薬師堂より出火し、
五百余戸を焼き、このとき以来薬師堂は誓願寺に預けられた由で、
さきの地図の薬師堂は疑問視されているが、
小津医院本宅周辺及び裏手の細路地海岸までが薬師小路、
その北側細路地(弁天をまつる)を含む一帯が達磨小路である。
今町は埋め立てられた堀川を越えた西側、
小津医院、元旅館青浜館の辺りと、堀川左岸永三小路に隣接する辺まで、
八幡小路の海岸、八幡下台場も今町に含まれる。
明治二十二年小浜町役場が日吉に新築され、
四月一日より市町村制度がスタートする。昭和十年四月、雲浜村、
西津村を併合した小浜町が発足、町役場は日吉区から清滝区に移る。
南川に百間橋があり、その南河畔に役場はあったのを覚えている。
橋の対岸の城は既になかったが役場近くが牢屋であった記憶もある。
昭和三年、昭和天皇の大典を記念した公会堂が役場を流用して建ち、
役場は清滝から又日吉に移転する。「若狭ふれあいセンター」がその公会堂跡地である。
戦時、大飯町出身の松木庄吉の彫刻数点が公会堂に疎開、戦後に及んでいた。
句誌「ほととぎす」同人 森田 昇